シンなるセカイの終末を見た、僕の情動の理由の考察
※本記事は、「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」をはじめとして、他いくつかのコンテンツのネタバレを含みます。予めご了承ください。
1.はじめに
「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」、公開。
これによって『新劇場版』シリーズは14年のながーい歴史に一旦幕を下ろすことと相成った。一介のオタクとして見逃せない作品である。しかし、僕は現在進行系で就職活動をしなければならない身なので公開日にすぐ、というわけにはいかず、忙しい合間を縫ってようやく先日この作品を鑑賞する機会を得た。
思えば僕はこのような長編シリーズを他にも幾つか嗜んでいる。例えばそれは『Fate』シリーズだし、『ガンダム』シリーズも、U.C.作品*1を一続きと捉えた時、そうだと言えるだろう。
高校生の時にDVDを借りて観た『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』も、実際に劇場に足を運んだ『機動戦士ガンダムUC episode7 虹の彼方に』も、記憶に新しい『機動戦士ガンダムNT』も『Fate/stay night [Heaven's Feel] Ⅲ.spring song』も等しく「一つの物語の終わり」として僕に深い共感と、納得と、感動を与えてくれた。5月に公開予定の『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』もきっとそうであろうと期待している。
しかし、「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」は、僕にとってそうはならなかった。
「TV版」「旧劇場版」にあった納得が、情動がない。その事実に何よりも驚いているのは僕自身で、この文章はそんな自分の感情を俯瞰し、整理するためのものである、ということを前提に、読み進めて頂きたい。
2.違和感の場所
2-1.共感出来ない
ロボットものに限らず、こういうSFものは、往々にして受け手を置き去りにしがちである。サイエンス・フィクションを名乗る以上、そこには異世界を構築する上での綿密な設定が組み込まれ、複雑化する。それ故に起こる現象なので、仕方のないことである。
そして、必ずしもそのすべてを受け手に開示する必要がないのもまた事実である。僕が必要だと考えるのは、主人公と受け手の間での、理解度が離れすぎていないこと、だ。
先に挙げた2シリーズを例に取るのであれば、例えば「ニュータイプ」という『ガンダム』における概念は非常に曖昧で、定義されていない。ざっくり言って「なんとなく、エスパー的な能力」くらいの認識しかない。しかし、これは劇中においても同様で、受け手の僕らと劇中の彼らの間に齟齬は生まれない。
また、「Fate/stay night」や「Fate/Zero」における「聖杯」の役割はその一部が伏せられており、一部のキャラクターを除き主要キャラクターのほぼ全てが物語終盤まで「聖杯」の全容を知らない。ここでも、受け手の僕らと劇中の彼らの間に齟齬は生まれない。
こうすることで、受け手は作品の中に入っていくことができる。「ニュータイプ」であればその解釈は自由であるという共感を得ることができるし、「聖杯」であればその真実の開示とともに、受け手と劇中のキャラクターは同じ驚きを共有することができる。
では『エヴァ』はどうか?鑑賞後、白いプラグスーツに身を包んだアスカの描かれた特典の冊子を開いた時、僕は違和感の正体のうちの一つに気がついた。
ここに書いてあることの大半は、彼らは理解していて僕らは理解していない事実なのだ。
もちろん、僕の理解不足も大いにあるだろう。インターネットの海を泳げば、それらの用語についての考察も数多見られることだろう。しかし、劇中の彼らはその用語を考察、という曖昧な定義の下で使用していただろうか?
答えは否である。アスカやミサトさんのセリフの端々は理解に難航するし、カヲルくんのセリフはもうほとんどわからない。問題なのは、主人公であり、こちらとそちらを繋ぐはずのシンジがそこに一切の疑問を抱いていないように見えることだろう。「TV版」の時から『エヴァ』はその部分が気になっていた。その齟齬のせいで、僕は物語に入り込めないのである。
しかし、そんなことは「TV版」からずっとそうである。ではなぜ、僕は「シン・エヴァ」だけにこのような違和感を抱いたのか?
2-2.理想の「セカイ」
「セカイ系」という言葉がある。
主人公とヒロインを中心とした小さな関係性の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと
(東浩紀 「美少女ゲームの臨界点 波状言論《臨時増刊号》」)
これこそ定義が曖昧でとらえどころのない代物であることは確かだが、多くの人が「セカイ系」のイデアとして「新世紀エヴァンゲリオン」を捉えていることは、事実として言っていいだろう。
人の認識は、イデアに強く引っ張られる。僕は思い込みの強いほうなので、この傾向がひどいことは自覚している。
だから、「TV版」よりも、「旧劇場版」のエンディングの方を強く意識してしまうのだろう。「こちらがきちんと作られた『エヴァ』で、セカイ系っていうのは、
「世界は滅びちゃったけど、ぼくらのセカイは救われたからハッピーエンド 」、或いは逆に「世界は救われたけど、ぼくらのセカイは壊れたのでバッドエンド 」 *2なんだな、最終的にはバッドエンドのことのほうが多いんだな」という思い込みが既に完成していた。
僕が「TV版」「旧劇場版」を最初に見たのは中学生の時のことだったので、このイデアは僕を今現在までずっと縛っている。僕が前項で述べた違和感を感じなかったのは、そのようなことよりも先に『エヴァ』のストーリーが斬新で、それを処理するのに必死だったからなのだろう。結果的に後々それらを見返すまでその違和感に気が付かず、まんまと「セカイ系」のイデアを作り上げてしまったわけである。
そんなことだから、僕は中途半端な「天気の子」、大団円の「君の名は」を忌避し、鬱エンドの「ほしのこえ」を絶賛する。そういうオタクに至ったのだろう、と今書きながら思った。そして「シン・エヴァ」は、満場一致の大団円である。
昔は気が付かなかった違和感と、イデアであったはずのものがイデアから乖離してしまった違和感。その2つが、あの終劇の文字と同時に訪れた奇妙な感覚の正体なのだろう。
3.なんでも否定から入るのはおたくクンの悪い癖だよ
いやまさしくその通りで、前項を書き上げて、頭を冷やすために下書き保存をして別の作業をしていたので、もう少しフラットな視点で「シン・エヴァ」について考えていく。あとちょっと、お付き合い願いたい。
『エヴァ』シリーズの完結編としてみた時、「シン・エヴァ」はとんでもなく出来の良い作品であることに気がついた。あと、「Q」とセットで考えるべきことにも気がついた。各種用語からストーリーの裏を考察するのはもっと優秀な方々に任せるとして、素直に思いついたことを書いていこうと思う。
3-1『シン』としてパーフェクト
「Q」+「シン・エヴァ」は「TV版」「旧劇場版」の流れを完全に踏襲している。
「TV版」では、シンジがエヴァに乗りたくない状態と、覚悟を決めて乗る状態を繰り返す。その流れが、14年後の世界でも繰り返される。その他にも、「目標を求めて地下に潜って、予想が裏切られる」だったり、「アスカが失敗しシンジが出撃する」だったりする流れは、「TV版」「旧劇場版」でも頻繁に用いられた文脈だ。
ここで、このシリーズが『新劇場版』と銘打たれていることを思い出す。そう、これは決して「TV版」「旧劇場版」の視聴を前提としていない。「序」が初エヴァである世代にとって、同じ文脈を用いることでまとめにかかるというのは、『エヴァ』が変化していないことを感じさせた。
仮に『新劇場版』のみを観た受け手が、新たに「TV版」「旧劇場版」を観たとしても、『エヴァ』としての違和感は持たないだろう。『新劇場版』は紛れもなく『エヴァ』だったのだ。
3-2.総まとめとしてパーフェクト
では、「TV版」「旧劇場版」からのファンに向けてはどうだろう。
受容の可否はともかくとして、「旧劇場版」『新劇場版』制作側からは明確な一つの意図を感じる。それは、「大人になる」ということだ。
「旧劇場版」では監督から実際に「現実に帰れ」という言葉で表されたそれは、「シン・エヴァ」においては成長したエヴァチルドレンという形で描かれる。
「絶望」と「希望」という2つの対立したテーマを持ちながらその根幹は共通している。親との対話を通して描かれるシンジの成長。それに気がついた時、用語とか設定とか、そういうものがどうでも良くなって、「シン・エヴァ」の最後の『エヴァ』としての良さみたいなものが見えてきたような気がした。
4.おわりに
最後にシンジと一緒にいるのは、アスカでもレイでもなく、新キャラのマリである。
シンジにとって青春時代を共に過ごしたアスカやレイでなく、マリが横にいることの意味を考えざるを得なかったが、これを書きながら頭を整理して、ようやく僕にとっての答えを出すことが出来た。
『エヴァ』から貰った心地の良いイデアは、そろそろ青春とともに捨てなければならない。大人になって手に入れた新しい価値観とともに、僕も「エヴァチルドレン」を卒業するときが来たのかもしれない、と思った。
沢山悩んで手に入れたその新しい価値観はきっと、「Illustrious」なものだろうから。
2021年3月22日
徹夜明けの少し冷える朝に
秋風
*1:『ガンダム』作品のうち、「宇宙世紀」と呼ばれる時代を軸にした作品群
*2:https://dic.pixiv.net/a/%E3%82%BB%E3%82%AB%E3%82%A4%E7%B3%BBより引用